それが来たのは丁度小休憩が始まった頃だった。
教室に白い蝶々が入ってきた。それは俺の肩に留まると、耳に小さくカカシの声を響かせた。

“ 今日、行くよ ”

それは本当に微かで、蝶々はすぐにさらさらと消えてしまったけれど確かに聞こえた。なるほど、これが式とかいう奴か、初めて見た。
教室にいた奴らはこの蝶々について色々言っていた。

「今イルカの肩に蝶々が留まらなかった?」

「え、そう?俺見えなかった。」

「見えたような気がしたけど気のせいかも。」

ふーん、人によっては見えたり見えなかったりするらしい。ま、すぐにみんな蝶々のことは忘れて校庭に遊びに向かったのだが。
授業も終わって放課後、膝の怪我がちょっと深くざっくり切れていたので自主トレは今週一週間は控えめにすることにしていた。今日はさっさと家に帰ってご飯の準備でもしてしまえとスーパーに向かった。
そう言えば何が好物かは聞いてなかった。嫌いなものは天ぷらとは聞いたけど、肉が好きか魚が好きか、それくらいは聞いても良かったかもしれない。まあ、そんなに好き嫌いが多いってわけじゃなさそうだし、今日は時間もあることだから煮込み料理でも作ってやろう。
今日の特売は牛すじらしい。ふむ、牛すじを煮込んで牛丼にしてしまおう。後は具だくさんのみそ汁と家にある漬け物でいいか。
イルカは買い物かごに肉を入れた。
スーパーを出て空を見上げると、入道雲が流れていた。その空の青さにくらくらと眩暈がしそうだった。そして人知れず呟いた。

「今度は受かりたいなあ。」

イルカはため息を吐いた。
実はイルカは一度下忍認定試験に落第している。アカデミーは卒業できたものの、下忍認定試験に落ちてしまったのでまたアカデミーに戻されてしまったのだ。秋にまた試験があるので今度こそは合格しなければ、と思って一昨日はがんばりすぎて怪我をしてしまった。
世の中にはカカシのように同じような年でもいっぱしに活躍している忍びがいるって言うのに、うかうかしてられない。
イルカは、うっし、と気合いを入れると自宅まで軽く走ることにした。これは無理じゃないぞ。膝の怪我だって別に触らなければ悪化はしないだろう。
イルカは買い物袋をあまり揺らさないように、忍びらしく静かに走り出した。
家に着いてイルカは台所に行くとコップに水を入れて飲み干した。そして一息ついた。
買い物袋の中身を冷蔵庫に入れて、すぐに調理するものを取り出して準備に取りかかる。

「今日も気合い入れていくぜっ。」

見てろよ、とイルカは息巻いて包丁を手に持った。

 

夕方になり、大体の準備が整うとイルカは食器を戸棚かから取りだした。すると玄関が開く音がした。カカシだろうか。
イルカは火を止めて玄関へと向かった。思った通り、カカシが玄関にいた。この間とは違って忍服を着ている。そして額宛てで片目を隠していた。そして極めつけは鼻から下を覆面で隠していた。これがいつもの恰好なのだろうか。暗部の恰好にしろこっちの忍服にしろ、なかなか目立つ恰好だとイルカは思った。

「思ったより早かったな。でも丁度良いぜ、上がれよ。」

カカシは頷いてサンダルを脱いだ。

「今日のおかずはなに〜?」

間延びた声がしてイルカは呆れながらも答えた。

「今日は牛丼だ。おかわりあるからもりもり食えよっ。」

にかっと笑うとカカシは嬉しそうに頷いた。
居間に入るとイルカはさっそく炊きたてのご飯に煮込み肉をよそってお盆に乗せた。そしてカカシが座っている前に運んでまた台所へと戻る。具沢山のみそ汁と漬け物も持っていって早速ご飯を食べることにした。

「いただきますっ」

パンっと両手を合わせてどんぶりに入った牛丼をかっくらう。カカシを見ると、がつがつと音がしそうな程に食べている。よかった、嫌いな種類のものではないようだ。
その後、あつあつの具沢山のみそ汁をすすり、きゅうりの漬け物もバリバリと食い、牛丼をそれぞれおかわりをしてご飯は終了した。
この間と同じように後かたづけを手伝ってくれるカカシにイルカは今日あったことを話していた。

「今日、式が来たじゃん?」

「まあ、飛ばしたからねぇ。」

「見える奴と見えない奴がいたんだよ。それにすぐに消えちゃったし。あれってどうなってんの?」

「まあ、色々と用途によって大小、能力も様々に変えられることができるんだけど。今回はイルカ一人に伝えればいいだけの小さな、そして効力も最小限にしたから、幻術が得意な者には見えたかもしれないし、普通の感覚の人だったらあんまり目に見えないものだったと思うよ。式は紙の性質のものが多いから、用が終われば紙片になる場合が多いけど、俺の場合はチャクラで実態をつけただけだから、終わったら消えるシャボン玉みたいなものだと思えばいいよ。」

ふーん、と相づちを打ちつつ茶碗を洗っていたが、頭の中ではこいつって結構すごいんじゃないの?と思い始めていた。
媒体を用いない式なんて初耳だ。術は小さく小さく、細く一点に集中すればするほど難しいとされる。それをいとも簡単にやってのけるなんて、中忍になるだけはあると言うことか。
しかし、それがなーんで暗部の恰好していたずらなんかしたのかねぇ。
横目で見たカカシは覆面を下げて茶碗を拭いている。そして俺の視線に気が付いたのか、何?と聞いてきた。慌ててイルカは考えていたこととは別のことを口にした。

「カカシは今日、どうだったんだよ。任務だったのか?」

「うん、まあね。ちょっと体力使ったけどばっちりこなしてきたよ。でも途中で変な奴に会ってさあ、」

カカシはそう言って話し出した。
更衣室で式を飛ばそうとしたら変な男にからまれて任務先までついてきて名前を名乗ったらやっと開放してくれたのだと笑った。おいおい、それって笑い事なのか?

「最初20代くらいの男かと思ってたんだけど話しを聞いたら俺と同じくらいだって言うからもう、ちょっといっそのこと哀れに思ったね。」

「へえ、そんなに老け顔だったわけ?」

なるほど、それでさっきは笑ったのか。思い出し笑いってやつだな。

「顔も体格も雰囲気も少年じゃなくて青年って感じだったし。思えばあの外見でそれなりに大変な目にも遭ってるのかもなあ。中忍だって言ってたし。」

口元で笑いながらもカカシはそう言って思いを馳せているようだった。同じ中忍同士で何か思うことがあるのかもしれない。なんだかいいなあ。

「猿飛アスマって言ってたけど、そういえば猿飛ってことは三代目の血縁関係なのかねぇ。」

カカシの呟きに俺は持っていた箸を流しに落とした。
今、アスマって言ったかこいつ。じゃあ今まで言ってた失礼そうな中忍ってアスマ兄ちゃんだったわけだ。ああ、確かに老け顔だし体格もよかったもんなあ。

「なに、もしかして知り合いだった?」

俺の行動にカカシはピンポイントな意見を出してきた。そうだよ、知り合いだよ。つってもアカデミーで少しだけ一緒だっただけなんだけどね。

「俺がアカデミーに入学した頃に卒業していく人でさ。ほら、入学する前に就学時検診っつって身体検査があるじゃん。その時に卒業していく生徒に手を引いてもらって学校案内とかしてもらうだろ?その時に俺の担当してくれた縁でたまーにアカデミー以外でも遊んでもらったりしてたから。でも中忍になってからここ最近はあんまり姿を見てなかったけど、そうか、そんなに老けてたかあ。」

そういえばアカデミー生の時ももう大分他のアカデミー生とは雰囲気が違ったような気がしたな。そっか、初対面の人でそこまで間違えられるってことはあれからまた一段と老けに磨きがかかったわけだ。なまじどーんと物怖じせずに構えるようなタイプだから余計に誤解されやすいんだな。中身はまだまだ10代だって言うのに...。
俺はハハハ、とから笑いした。確かに年齢的にはカカシとそう大差がないのかもしれない。

「そうなんだ、そんなに有名とは知らなかったな。下級生に人気があったってこと?」

「うーん、まあね。カカシは聞いたことないの?そう言えば同じ中忍同士なのに顔も知らなかったなんて、カカシってば案外顔覚えるの苦手な方なの?」

「いや、別に苦手ってわけじゃないけど。なんて言うか、今まで里外の任務が多かったから顔を合わせる機会がなかっただけ、かな。それに俺、アカデミーにはそんなに長いこといたわけじゃないし、卒業したの随分前だからなあ。」

「随分って言っても数年前だろ?」

「うん、そうだねえ、確かに数年前だ。8.9年前かな。」

...聞くんじゃなかった。でも好奇心というものは後から後から沸き上がってきてしまう。
すっかり後かたづけも終わってしまい、あとはカカシの茶碗拭きだけとなったしまった今、俺はおずおずとカカシに問いかけた。

「なあ、言いたくなければ言わなくていいんだけど、中忍になったのって、いつ?」

「ん〜、6歳の時だったかなあ。」

至極なんでもないことのように言ってカカシは最後の一枚を拭き終わった。
天才、その言葉が頭を回る。そうか、こいつ天才の域の人間だったんだ。6歳で中忍だと??そんな奴滅多にいないって。確かアスマ兄ちゃんも早熟で12歳で中忍になったって聞いてたけど、それ以上の早熟だ。くっそう、俺だって絶対中忍になってばりばり任務だってこなしてやるんだからなっ。
食器を片付けて、俺とカカシは居間で冷えた茶を飲んで休んだ。
最近は日が沈むと少しずつ涼しくはなってきた。

「そういえば怪我はどうなの?この間はとりあえずの応急処置しただけだったから帰ってから少し気になってたんだけど。」

気にしてもらってたのか、なんだか気恥ずかしいなあ。元々俺の無理が祟って怪我したんだからみっともないって言うか、ちょっと格好悪いよな、俺。
ごもごもと口の中で言いつつも、俺は苦笑いを浮かべて大した怪我じゃないけど、大事を取って今週一週間は激しい運動は控えめにすると答えた。

「包帯はちゃんと毎日替えてるの?ざっくり切れてたから膿んだりすると痛いよ?」

「あー、そう言えば今日はまだ替えてないな。」

言われて思い出すと、カカシは立ち上がった。そして救急箱を取ってきて俺の前に座った。忍びの家なので救急箱はわかりやすい場所に置いてあるのだ。万が一怪我してもすぐに対処できるように。

「あの、カカシ?」

カカシの行動に少々の不安を覚えつつ、俺は聞いたのだが。カカシは何でもないことのように、怪我、放っておくと化膿するから。と言って包帯を外し始めた。こいつ、最初から思ってたけど怪我に過剰に反応してないか?

「カカシは心配性だねえ。こんな怪我は日常茶飯事だっつの。」

それでも包帯を替えた方がいいのは本当なので、折角だからと俺はカカシにまかせることにした。

「仲間が怪我しているのを見るのは、辛い。死ぬのはもっと、辛い。」

その言葉がどんな意味を持って発せられたのか、俺にはよく解らなかった。けれど、天才で小さい頃から任務をしてきたこいつは、俺の知らない黒いものも見てきたんだろう。
カカシは俯いて俺の怪我の様子を見ている。消毒し、ガーゼを張り、再び包帯を巻いていく。そして包帯を巻き終わって、カカシは救急箱を元在った場所に戻した。
その手際の良さを、お前は望んで手に入れたのか?それとも、否応なく身につけさせられたのか。今日も相変わらずその動きは流麗だったが、別な所でなんとも言えない気持ちが沸き上がっては消えていった。